越路吹雪/愛の讃歌

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1950年リリース
作詞:エディット・ピアフ
作曲:マルグリット・モノー

「愛の讃歌」(あいのさんか)は、フランスのシャンソン歌手エディット・ピアフの歌。日本では岩谷時子の訳詞(日本語詞)により越路吹雪が唄ったものが特に有名である。

本作の歌詞は1947年10月、ピアフがアメリカ初公演時に出会い、恋の相手であったプロボクサー、マルセル・セルダンが1949年10月28日に飛行機事故で亡くなったのを悼んで作られたと言われてきたが、セルダンの生前に書かれたものであることが判明している。相思相愛で誰もが知る仲ではあったが、妻子を持つセルダンとの恋愛に終止符を打つために書いたものだと考えられている。

越路 吹雪(こしじ ふぶき)

シャンソン歌手、舞台女優。元宝塚歌劇団の主演男役で、本名は内藤 美保子(ないとう みほこ)。
両親が姉の看病に専念するため、越路は山梨の祖父母のもとに預けられた。その後、父が新潟へ転勤し、越路も新潟で下宿した。これが「越路吹雪」の芸名の由来となった(芸名は父親が名づけた)。

宝塚歌劇団27期生。1939年(昭和14年)2月、宝塚歌劇団・月組公演「宝塚花物語」で初舞台を踏んだ。

終戦後、宝塚が再開した1946年(昭和21年)の第2回花組公演で越路が主演した「ミモザの花」は好評を博し、楽曲は今も宝塚の代表曲のひとつとして歌われている。また「ブギウギ巴里」でレコードデビューし、戦後の宝塚で最大のヒットとなった。

1951年(昭和26年)の宝塚退団後は、1968年にフリーになるまで17年間東宝の専属スター女優として主にミュージカルで活躍したほか、歌手としてシャンソンや映画音楽を多くカヴァーする。特にシャンソンにおいては、作詞家・翻訳家の岩谷時子とともに数多くの曲を日本に紹介し、「(日本の)シャンソンの女王」と称された。「魅せる歌手」と評価された越路は、同じ女性シャンソン歌手で「聴かせる歌手」と称される岸洋子と人気を分け合った。
ちなみにシャンソンを歌うきっかけとなったのは、宝塚時代にある舞台を見に来た進駐軍の将校から「あなたは“語る”歌い手になるべき」と言われたことから。

1958年(昭和33年)にテアトロン賞、1965年(昭和40年)に第7回日本レコード大賞歌唱賞、1968年(昭和43年)に文化庁芸術祭奨励賞など、多くの賞を受賞した。

生誕:1924年2月18日
出身地:東京府東京市麹町区(現・東京都千代田区麹町)
活動期間:1937年 ~ 1980年


※情報はウィキペディアより
※2024年3月時点の情報

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