1996年12月21日リリース
作詞:藤井フミヤ
作曲:藤井尚之
編曲:松浦晃久
「白い雲のように」(しろいくものように)は、猿岩石のデビューシングル。
『進め!電波少年』でのユーラシア大陸横断ヒッチハイク企画終了後、所属事務所関係者や土屋敏男により、二人の歌が『思ったより上手い』という意向を理由として、歌手デビューが決定した経緯がある。
リリース当初はあまり注目されず、週間チャート初登場23位、約2万枚の売り上げだった。しかし当人らの知名度が浸透し、4週目で初のトップ10入りとなる4位に急上昇。その後も何週にもわたりランクインし続け、お笑い芸人がリリースしたCDとしては異例のロングヒットとなった。オリコン集計でミリオンセラーを達成している。
当初VAPから発売する意向であったが、太田プロダクションがコロムビアを選択。この行為に日テレ側が激怒し、結果として番組で太田プロの所属者は起用されなくなり、松村邦洋も降板することになった。
2人は広島県の小・中・高の同級生。18歳の有吉は、EXテレビのオーディション企画でオール巨人への弟子入りを認められた。しかし8ヶ月後に巨人から謹慎を命じられ、有吉は地元広島に戻ったのち、1994年4月に森脇を誘って猿岩石を結成した。
1996年4月、テレビ番組『進め!電波少年』の企画で「だまされて」香港(当時イギリス領)に連れてこられ、香港で「イギリスまでヒッチハイクで行け」と告げられ、旅が始まった。
猿岩石は「最初は、『いつでもリタイアできる、所詮はTV企画』という甘えがあった」と語っている。しかし過酷な旅の模様は徐々に人気を博していくこととなり、1996年10月に無事ロンドンにゴールした頃には2人は全国的な知名度を獲得していた。
サンプラザ中野が歌った応援歌「旅人よ 〜The Longest Journey」も評判になり、またヒッチハイクの内実を記した書籍『猿岩石日記』もシリーズ累計で250万部のベストセラーになるなど、「猿岩石フィーバー」と称される社会現象となる。この企画の大ヒットで『電波少年』の人気は持ち直し、2003年まで続く事になった。
12月、秋元康のプロデュースにより、藤井フミヤ・藤井尚之兄弟提供の「白い雲のように」を発売する。ヒッチハイクを連想させる様な曲でミリオンセラーになり、1997年の『第39回日本レコード大賞』の新人賞を受賞し、その後もヒット曲を連発。一時アイドル的な人気を博す。ただし「視聴者の支持が得られなかった」という理由でその年の『NHK紅白歌合戦』には落選した。
2004年3月に有吉のお笑い芸人志向、森脇の役者・音楽家・実業家志向という方向性の違いにより解散。有吉は太田プロダクションに残り、後にピン芸人として「再ブレイク」を果たす。森脇は実業家へ転身して一時芸能界を引退するも、2015年より芸能界へ復帰している。
なおグループ名は、中学校の同級生の女の子のあだ名『猿女房』『ほくろ岩石』の『猿』・『岩石』をくっつけて出来たのが由来。『猿女房』は『猿に似た男の子とつきあっていた』から、『ほくろ岩石』は『岩石みたいなほくろが顔にあった』からついたあだ名とされる。
メンバー:有吉 弘行、森脇 和成
活動期間:1996年 〜 2004年
※情報はウィキペディアより
※2022年3月時点の情報